3Mにいながら様々な経験を得ることができる

  • 藤井 (2005年入社)人財開発部(Learning & Development

    藤井 (2005年入社)
    人財開発部(Learning & Development)


My Job

まずは、現在のお仕事について具体的にご説明いただけますか?
私の所属するLearning & Developmentチームは主に3M カルチャーの浸透や個々の社員の成長をサポートするために、さまざまな学びやチャレンジの機会を提供する部門です。新卒新入社員の方々の育成からリーダー育成まで、私たちの仕事は「人の成長をサポートすることであり、次の3Mをつくる」仕事だと思っています。3Mは100年以上の歴史のある大きな会社です。しかし、この変化の激しい時代においても価値を生み続けるためには、多様な社員が新たな挑戦を通じて成長し、自分自身を変化させ続けることで会社の変革を続ける必要があります。そのために、多様な社員がそれぞれの好奇心や理想を追い、未知なるものに挑戦する場をつくり、経験から学ぶことを支援します。3Mのイノベーションは、サイエンスがお客様の現場の課題と結びついたときに、新星のごとく輝き力を発揮します。3Merは専門家としての知識をもちながら素人のひらめきや発想を忘れず、お客様の困難に共感しつつ技術に裏打ちされた効果的で現実的なソリューションを提供します。専門分野や年代を越えて、多様なメンバーが業務範疇を越えて知恵を出し合うことで、専業の他社メーカーには思いもよらないようなイノベーティブな製品が生まれます。この絶妙な人財によるケミストリーを次の世代も起こしてゆくにはどうしたらよいか、時代に合わせてどうアップデートさせてゆけるか、それを経営陣と考え、プログラムの中で社員と一緒に考え、全社員がお客様中心のイノベーションをリードする役割を果たせるようにすることが私たちのミッションです。
 
仕事の種類を大枠で言うと企画・運営・振り返りの3つになると思います。これを経営上の課題に応じて様々な注力分野において行います。例えば「全社員向けのカルチャーの浸透」や「リーダーの育成」という課題があるとするならば、「どのようにしたらカルチャーを浸透できるか?」を考えてプログラムを作ります。社員の現状とあるべき姿の間に生じているギャップを明確にし、研修だけではなく人事施策や、イベント、ウェブコンテンツなど、様々なチャネルや施策を連動して設計します。もちろんグローバルで用意されたプログラムがある場合は、それを国内で展開するための計画をグローバルと連携して行います。そのようにして企画をしたり、実際に運営を行います。ファシリテーターとして研修を行ったり、社内の講演会やイベントをプロデュースしたり、さまざまな役割を担いながら、社員の方々にとって記憶に残り、行動を変えるきっかけになるように、実行します。また、実施後はアンケート等をとって参加者のみなさんからフィードバックをもらい、当初の目的がどれだけ達成できたかを定性定量の両方から把握、測定します。そして、そこで学んだ知見を次の企画に活用しています。
 

My Career

どうして3Mを選んだのですか?
私は新卒で3Mに入ったのですが、学生時代、インターンをきっかけに外資系の大手ヘルスケアの社内ベンチャーで2年ほど、学業と並行して週2~3日働かせてもらっていました。そこでは輸入製品の車いすを扱っていました。良い製品だったのですが、商品のサイズが大きく日本の住環境にあわず、なかなか売れませんでした。この経験から輸入製品だとお客様に対してできることが限られる場合があるということを学びました。同時に外資系の堅苦しくない雰囲気が自分に合っていると思ったので、外資系でも国内でモノづくりをしている会社を探しました。もともと大学では経営学、とりわけイノベーション論の研究をしていた関係もあり、その際にベストプラクティスとしてよく出てくる3Mに興味を持ちました。調べてみると国内に工場があることを知り、応募したところ、とんとん拍子で選考が進み、内定をいただきました。3Mの面接では、ほとんどビジネスの経験もないのに、経営論を語ったりしていましたので、相当生意気な受け答えをしていたのだと思いますが、それを「おもしろいやつ」と笑って採用してくれた感じがあります。もしそういった態度で他社の選考を受けていたら、落とされていたでしょうから、今思うと冷や汗がでますし、よくも3Mは懐深く受け止めてくれたなぁ、と感謝です(笑)。
 
3Mでのキャリアを教えて頂けますか?
〈新入社員時代〉
入社してすぐ電子部品事業部のマーケティング部に配属になりました。当時新卒入社社員は営業に配属されることがほとんどだったので、マーケティングへの配属は異例でした。周りからは期待をかけられ、自分自身も、もともと高かったプライドがさらに高くなり、肩ひじ張って仕事をしていたと思います。きっとこの時も、周りから見るとかなり鼻持ちならないやつだったのでは、と今になって思います。当時の3Mのマーケティングは業務管掌が広く、製品の企画・開発から、利益管理、製造計画のための需要予測、カテゴリー戦略策定まで多くのことを任せられました。当然、先輩の手ほどきがなければ何一つできず、鼻息荒く恰好をつけて仕事をしてはいましたが、実態は当時のOJTトレーナーと上司におんぶにだっこの状態でした。何も理解していない状態から、2年後に営業に移るまでの間に、メーカーとしての基礎であるP/Lの考え方、プライシングや在庫管理の重要性を学ぶことができたのは先輩や上司たちのおかげだと感謝しています。
この時期で特に印象的だったことの一つは、多額の生産設備の投資案件を担当させてもらったことです。入社して1年足らずで先輩や上司のサポートを得ながら役員に対してプレゼンテーションをしたときはさすがに足が震えましたが、新人でもどんどんチャンスを与えてくれ、3Mはやはり懐が広いな思いました。当時、一般的に見たら新入社員に任せる仕事のレベルではなかったと思います。
また、もう一つは自分で着想したある新製品について技術部に掛け合ってプロジェクトを始めさせてもらったことです。かなり突拍子もないアイデアだったのですが、「おもしろいね」と言ってもらい技術担当の人をアサインしてもらうことができました。特許の可能性を調べる中でいくつもハードルがあることがわかり、結局プロジェクト自体を断念したのですが、自分が動けば本当に15%カルチャーで興味のあることに取り組めるんだ、と実感した最初の出来事でした。何年か後に、類似製品が競合他社から発売され、それを当時のチームメンバーから教えてもらった時には「しまった・・あきらめてはいけなかった・・」と悔しく思いました。
 
〈異動と転勤〉
その後、同じ電子部品の事業部の営業職に異動し、東京と大阪で営業を経験しました。東京と大阪では商習慣が異なり、それぞれのお客様との交渉方法を学ぶことができましたし、大阪の環境や文化が自分にとって心地よいという発見もあり、大阪が大好きになりました。大阪時代は部門を越えて若手の仲間がたくさんでき、本当に公私ともに豊かな時間でした。そのあと、入社5年目で文具製品を扱う事業部のマーケティングに異動になります。私にとっては、B2Cのビジネスもやってみたかったので大変ありがたいチャンスでした。移ってみると電子部品のビジネスとは何から何まで異なり、転職したのかな、と思うくらい使う言葉も考え方も異なりました。B2B、B2Cそれぞれに面白みがありますが、B2Cの面白みはなんといっても、最終製品を手掛けられることです。自社のブランドで発売する分、自由度が高いですし、手塩にかけた自分たちの製品が直接お店で消費者に販売されるのを見るのはとてもワクワクするものです。この部署で私は小売文具店舗のチャネルマーケティングを担当させてもらいました。当時、国内の小売文具店数はカタログ通販や後継者不足の流れに押されて減少の一途をたどっていました。その中でいかに売り上げを伸ばすか、というのが課された命題になります。私が担当したのは新製品を店舗に必ず仕入れていただく代わりに3Mの方で販売促進を強力にサポートさせていただく「エクセレントパートナーショップ制度」という、前任者から引継いだ仕組みの立ち上げでした。販売店にとっては新製品を必ず導入しなくてはならないので、リスクのある制度でもありましたが、販売部と一緒に推し進め、店舗のご担当者様やパートナーの皆様にもご理解を得ることができ、加盟店は200店を越えました。販売部、そして、実際の店舗を回ってただいていたフィールドサービスの皆さんと一丸となって取り組めたのは本当によい経験で、この時チームで仕事をする楽しさやコツを少しつかんだ気がします。
 
〈シックスシグマでの経験〉
文具製品のマーケティングを2年経験した後、また異動があり、今度はシックスシグマというコーポレートファンクションに異動しました。シックスシグマとは社内の効率化や品質改善をデータと統計を使いながらプロジェクトベースで行う部隊で、私はここでは大小4~5つのプロジェクトを経験させてもらいました。その中でも一番印象に残っているのは、当時3Mが買収した、とあるカーケア製品ブランドの日本市場の導入戦略を担当させてもらったことです。発端は当時の社長とシックスシグマのメンバーで行ったラウンドテーブル会議でした。その際に「どのような仕事を今後したいと思っているか」と問われ、「新規ビジネスのような刺激のある仕事がしたい」と言ったところ、数日後に上司に呼び出され社長の特命でこのプロジェクトに取り組んでほしい、と言い渡されました。ただし、チームメンバーはおらず、その代わりコンシューマービジネス担当の役員が直接指導をするので、密にコンタクトをとるように、とのことでまさか本当に、しかもこんなに早く新規ビジネスに関わる仕事がくると思っていなかったので内心狼狽しましたが、コンシューマーでの経験も活かせるし、なにより社内のプロセス改善を緻密に行うよりも新しいビジネスを自由に描ける仕事でしたので、自分には合っていると感じ、嬉々として引き受けました。実は、面白いことに自分は車を持っておらず、カーケア製品などほとんど使ったことがなかったということに引き受けてから気づきました。そこでまずはカーケア商品を扱うショップにいって、市場で一番売れている製品をカテゴリーごとにいくつか選び、人の車を借りては週末洗車をさせてもらっていました。これは車の持ち主には大変喜ばれ、うちもお願いしたい、と複数人に言われ、引き受けすぎて途中で「いったい自分はなんで人の車をこんなに洗車しているんだろう」と不思議に思う始末でした。そんなことをしているうちに、指導役の役員より「マーケティング戦略を考えるには、そのブランドが成功している国を見るのが一番なので、韓国に行ってきなさい。」と言われ、急遽韓国に飛びます。韓国では輸入販売をしている独立した会社があり、そこの社長に一からブランドを育てるためにどのようにしてきたか、どのような競争戦略をとってきたかをみっちり教えてもらいました。社長からはビジネスのことだけでなく、韓国の政治や経済について、家族や文化についても飲食をともにしながら教えてもらい、今でもつながっている仲間です。仲間と言えば、もう一人、このビジネスのアジアの代表で、シンガポールに在籍する社員とも非常に仲良くなりました。彼は「日本がビジネスをスタートするなら支援を惜しまない」といい、何度も日本に足を運んでくれました。実をいうと彼は日本、特に秋葉原が大好きで、彼に秋葉原を案内してもらい逆輸入的カルチャーショックを受けるという経験もさせてもらいました。プロジェクトの最終的な提案としては、様々な観点から検討した結果、大々的な導入という提案には至りませんでしたが、コンサルタントで経験を積んでいた上司にも手ほどきを受けながら新規ビジネスの戦略の策定の仕方を学べたのはとても良い経験でしたし、共に仕事を進める大事な仲間を得た貴重な時間でした。
 
〈出向〉
シックスシグマの在籍期間は2年間という決まりがあり、2年経ったら自ら社内で積極的に動いて異動先を探します。私もそろそろどこの部門に戻るかを決めなくては、と思っていたところ、会社のエレベーターホールで「東日本大震災の被災地への出向者1名募集」という貼り紙を見つけました。当初は「これに応募する人いるのかなぁ」と思っていたのですが、異動先を見つけるにあたり自分がこの先、一所懸命やりたいことは何だろうか、と考えているうちに、ひょっとしたら、自分が学んできたことを本当に活かせるのは震災復興のこの仕事なのでは、と思うようになりました。B2Bも、B2Cもスタッフファンクションも経験させてもらい、プロジェクトを進める自信もついた。この3Mで学んできたことで日本の社会に貢献できるとしたら、これ以上やりがいのある仕事はないのでは、と考えました。東日本大震災を経験して働くことや生きることに対してより真剣に考えるようになったという影響もあったと思います。かくしてさまざまな人にサポートをいただき、岩手県大船渡市の市役所に経済同友会を通じて出向させてもらうことになりました。大船渡市は人口約3万8千人の三陸沖に面する水産業の盛んな街で、津波の被害で街の中心地は壊滅、死者・行方不明者は400名を越えました。私は経済同友会を経由して派遣された他社の社員と一緒に大船渡市に移住をし、仮設住宅に住みながら勤務を開始しました。私たちのミッションは二つあり、一つは現地の企業やさまざまなセクターのリーダーを対象に、経営再建と街の復興のために事業構想を策定してもらう塾を運営すること。もう一つは市長が考える街の復興のテーマに即して復興プロジェクトを実施することです。塾に関しては経済同友会を通じて数々の有名企業から講師を招き、これ以上はない、というくらい贅沢な講師ライナップになりました。例えば戦略の講義には世界的に有名な戦略コンサルティングファームのプリンシパルを筆頭にコンサルタントの方が5,6名も来てくださり、講義にプラスして、塾生につきっきりで事業構想を一緒に練ってくださっていました。他にもマーケティングや会計などあらゆる分野を代表するような方々が無償でお越しくださり、利益よりも大事なものがある、ということを行動で示せる方々に本当に頭が下がりましたし、大きく影響を受けました。私たち出向者は、塾生に本当にやりたいと思える事業構想を作ってもらうために、何度も何度も話を聞き、整理を手伝い、問いかけ、数字の整合性をとり、時には夜を通して議論をしました。そうして事業構想を完成させて、卒業していった塾生の方々は今でも深い絆で結ばれています。もう一つの市長の復興プロジェクトの方は一筋縄ではいきませんでした。私は当初社内で行うプロジェクトのように、市の人口や経済状況、市の財政の現状分析をし、課題を洗い出し、取りうる戦略の選択肢を並べて市役所や市民の方を相手にプレゼンし、提案の上、議論をしようとしていました。ところが、良い提案だと思うものをいくらプレゼンしても、まったく響かないどころか、会を重ねるごとに参加者が減っていく状況に陥りました。なぜだろうと思い、会に参加してくださる市民の方に飲み会で聞いてみたところ、「あんたたちはいつかいなくなるんだろう?いなくなった後は、いったい誰がやるのさ。」と言われました。ショックでした。こちらは本気で街の復興のためを思いやっていたのですが、結局、自分の思いの独りよがりだったということに気づきました。論理や損得だけでは人は動かないんだということを学んだ経験でした。それからは街の人たちがやりたいと思えるもの、価値があると思えるものを一緒に探し、仲間を増やし、自分たちは表に立たずに、市民の方々から声が上がるのを待って、サポートする形に切り替え、ようやく少しずつ仲間として認知されて動けるようになっていきました。この活動は街おこしの活動につながってゆき、現地の人たちが今もしっかりと活動を継続してくださっています。これは真の意味で少しでも復興に向けた足掛かりを作るお手伝いができ、とてもうれしいことでしたし、今も私の誇りでもあります。
 
〈 3Mへの復帰〉
出向は当初2年の予定でしたが、自ら志願してもう1年延長し計3年間出向させていただき、その後3Mに復帰しました。よくも3年間もの長期にわたって出向させてくれたなぁ、とまたしても感謝の気持ちでいっぱいでした。帰任する部署は人事を希望し、多くの方々のサポートをいただき念願をかなえることができました。人事を希望したのは、津波で破壊されても、また復興に向けて動く大船渡市で、人の力のポテンシャルの大きさを知り、人が集まり志の火が灯ると、その力が何倍にもなることを理解し、これを3Mでできたら、もっともっと3Mは社会を、世界を変えられると思ったからです。今はそれを実現すべく、さまざまな挑戦をさせてもらっています。
 

3Mにご興味を持ってくださっている方に対してメッセージをお願いします。

振り返ってみると本当にさまざまな経験をさせてもらいました。3Mという会社は個人の意志と努力次第で幅広い経験を積むことができる会社だと思います。この先もきっとさまざまなチャンスが、社員一人一人に待っているのだと思います。ぜひ、みなさまの経験を3Mという幅の広い舞台で発揮していただけたら、と思います!